2019年4月6日、金曜ゴールデンタイムのTBS「金スマスペシャル」に、志村けんさんゲストで出演!
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— クランクイン! (@crank_in_net) 2019年4月4日
志村けんさんといえば国民的なコメディアンですよね。
番組でも紹介された志村けんさんの歴史。
笑いに目覚めたきっかけから、ドリフターズへの加入、国民的コメディアンへの道、そしていかりや長介さんとの関係性までを紹介します。
もくじ
厳格な父を持ち、恐れていた幼少時代
志村けんさんゆかりの地といえば「東村山」ですよね。
幼少時代は東村山で育ちます。
志村けんさんのお父さんは教師をされていてかなり厳格な方だったそうです。どこにいっても「先生の子供」というレッテルをはられて、いつしか「いつもきちんとしなければ」と思うようになったそうです。
お笑いに目覚めたきっかけは「うんこ漏らし?」
志村さんが小学生の頃、運動会の日。
志村さんはトイレに行きたかったのですが、競争の順番待ちをしていていくことができず、ついにもらしてしまったそうです。
そして次の日からは「うんこ漏らし」と馬鹿にされるようになってしまいます。

そんなときいじめられるのが嫌で、ひょうきん者を演じることを決めたそうです。ちょっとしたモノマネネタを披露して笑いを取っていたそう。
当時やってたのが「酔っ払い」のマネ。これが数十年後本当にお笑いでネタになるとは思ってもいなかったでしょうね。
お笑いの世界へ踏み出す青年期
高校生になって将来を考え始めるころ。志村けんさんはもうお笑いの世界で生きていくことを決めていたそうです。
当時は今のNSCなど芸人の学校などはなく、付き人か弟子になるしかなかったんですね。
そこで当時、志村さんはビートルズの大ファンでもあったことから、音楽を使った笑いを考えていて、付き人に「ザ・ドリフターズ」を選びます。
昔は雑誌に芸人の住所なども掲載されていたそうで、リーダーである「いかりや長助」さんの自宅まで直談判に行ったそう。
雪の中、いかりやさんの家の玄関で12時間も帰りを待ったそうです。
その頃、志村さんは高校3年生だったそうです。こんな行動力がある高校生ってだけでも、すごいですよね。
長く、厳しかった下積み時代
志村けんさんは、晴れて「ザ・ドリフターズ」の付き人になったそうですが、そこから長く、辛い下積み生活がはじまりました。
お金がなく、今のようにロケ弁当もなかったそうで、ドリフターズが残した食べ物をかき集めてお腹を満たしたり、靴が買えなくて裸足で生活したり。
特に厳しかったのが地方への遠征で、一晩中眠ることなく、ドリフターズの機材を見張っていたそうです。

ザ・ドリフターズに正式加入!いよいよスターへ
下積みは6、7年つづいたそうです。
そしてようやく、ドリフターズのメンバーだった荒井注さんが抜け、そこで志村さんが加入することになりました。伝説の番組「8時だよ、全員集合」への出演を果たします。
志村けんさんというと初めからドリフターズだったイメージがありますが、実際3か月の試用期間があったそうです。まだそのころは「誰だあいつは?」という空気が流れていて、お客さんが笑ってくれなくて苦労したそうです。
しかし、「東村山音頭」をきっかけに志村けんさんが大ブレイクをはたします。
そこからドリフターズといえば志村けん!といわれるくらい、人気を博していきます。
「8時だョ!全員集合」終了。そしてピンでもスターへ
「8時だョ!全員集合」終了後は、「かとちゃんけんちゃんごきげんテレビ」が放送スタート。視聴率は34%をたたきだし、番組内でも「ヒゲダンス」をはじめ数多くのキャラクターやギャグがうまれていきます。
そして志村けんさんは、自他共に認める国民的なコメディアンになっていきます。
いかりや長助さん、志村けんさん、それぞれの想い
いつも志村けんを気にかけていた
いかりやさんは「8時だョ!全員集合」の仕切りを、ある時期から志村けんさんにまかせていたそうで、かなり信頼をしていたそうです。
また、番組ではいかりや長助さんの息子さんが出演し、いかりやさんが家庭の中で語っていた志村さんへの想いを紹介しています。
いかりやさんは、志村さんの番組をよく録画して見ていたそうです。一杯やりながらボソボソとつぶやくなど、ずっとずっと志村さんを気にかけていたそうです。
生前残したメモにも志村さんのことが記されていました。
いかりや長介は間違いなく師匠だった
笑いはすごく難しい。けれどそれに一生懸命だった。で、僕はそれを引きついだ。
僕の師匠としては間違いなかった。最後見に来てくれた舞台のあと、楽屋に来てほしかった。
親父が早く亡くなっていたからそういう風な(父のような)人がいてほしいっていうのがあったのかもしれない。
志村けんさんはいまでもドリフターズの5人コントの影響を受けているそうです。
そしていかりや長介さんが間違いなく師匠だったと語っています。
また、お父さんが早くに亡くなったため、いかりやさんを父として仰ぎみているところもあったんでしょうね。
「ドリフターズは家族だった」という言葉もありましたが、本当に志村さんを育てた、愛し愛されたグループだったんですね。
まとめ
小さい頃、「かとちゃんけんちゃんごきげんテレビ」が大、大、大好きで、放送を見た次の日は、ず〜〜っと志村けんのモノマネをしていたように思います。
なにげなくみていましたが、こんなに苦労されていたことにとても驚きました。
それでも志村さんは「その苦労を楽しんでいた」と語っていて、本当に尊敬してしまいました。
すべては気の持ちようなのかもしれませんね。
また、志村けんさんは番組最後、「お笑いはパワーを与える者。与えるためには自分にパワーがないといけない」と語ります。
そのパワーのおかげで視聴者は笑い、幸せをもらっていたんですね。
これからもずっと、人々に笑顔を与えるスターでありつづけてほしいと思いました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!